天武 天皇 謎

Add: yduli2 - Date: 2020-12-11 23:48:52 - Views: 7313 - Clicks: 5387

「物部」は天皇の形容詞だった!<古代史の謎は血縁関係で解ける>第五章 天武天皇 【アラカン社長の徒然草vol. . (1)天武天皇の生年の謎: ①古人大兄皇子と『神皇正統記』 ②草壁皇子と大津皇子 (2)天武天皇の兄弟と血縁の謎: ①大海人皇子の名称: ②采女と額田姫王: ③七人の姫王: ④額田姫王と鏡姫王 (3)天武天皇の婚姻の謎: ①第三皇子と『続日本紀』 ②政略. さて、天皇の神格化を図った天武天皇は、実は生年月日が不明で謎の多い人物です。 この謎の多き天武天皇が編纂を命じた「古事記」や「日本書紀」は、はたして真実なのか?これについては様々な意見があり、結論は出ていません。. 作者:Iwao Owa, 出版社:Rokko Shuppan, 出版日期:. 天智天皇の崩御について「紀」には、 「「天智天皇十年(六七一)九月に病床に伏した(或本では八月としている)。十一月には疾病(みやまひ)は更に重くなった。天皇は東宮(天武)を臥内(おおとの)に引き入れ、『朕は疾病が甚だ重いので、後事を汝に託す』と。東宮は自らを疾(やまひ)と称して固辞した。後の政に大友王を推し、臣、天皇の為に出家することを乞い願う。天皇これを許す。剃髪して僧になる。天皇は袈裟を贈る。それを着て吉野山に入った。太政大臣大友皇子が皇太子となった。天皇は十二月三日近江宮で崩御した。十一日新宮で殯(もがり)した」 とありますが、ここには陵墓の所在地が記されておりません。「紀」のどこにも記されていないのです。それも、「紀」において天皇陵が所在不明なのは天智天皇ただ一人です。 因みに、持統天皇も「紀」に陵墓が記載されていませんが、「持統紀」は、孫の皇太子・軽皇子(文武天皇)に位を譲った処で終わっているので、この時点ではまだ生きており、陵墓の記載がないのは当然です。このあとの『続日本紀』には、陵墓は記載されております(天武天皇の檜隈大内陵に合葬、大宝三年十二月二十六日)。 ところで、山城国宇治郡山科(やましな)に立派な陵が存在していることから、『岩波文庫』注では、ここが「紀」にある天智の「新宮」であると記しています。 これにより通説は、天智天皇が近江宮(滋賀県大津市錦織遺跡)で病没し、その陵墓は山科(京都市東山区山科御陵上御廟野町)にあるとしています。 ところが、後世(四〇〇年後)の書である『扶桑略記』には、これとは異なる全く不思議な記述が遺されていたのです。 「十月、天皇(天智)病に伏す。そして、天皇に後事を託されたが、自分(大海人)も病気がちであることを理由に固辞し、出家して吉野山に入った。十二月三日天皇が崩御した」 ——ここまでは、「紀」と同じですが、次の記述が問題なのです。 「一伝。天皇、馬で遠乗りに出かけ、山科郷に行幸した。還って来なかった。行方不明になったので、山林を捜索したが履沓が落ちていたので、その地に陵墓を造った」 次に意味不明の記述があります。それは、 「以往諸皇不知因果恆事殺害」 とあって、井沢元彦氏は前掲書で、 「『以往(のち)諸皇(しょこう)因果(いんが)を知らず、恒(つね)に殺害(さつがい)を事(こと)とす』だろうが、これでは意味が. 天武天皇の謎 大海人皇子(おおあまのみこ)は天智天皇の皇子(大友皇子)との皇位争いに際して、後に皇后となる持統天皇と共に吉野に逃れ、天智天皇崩御のあと天智の都、近江を攻め勝利しています(壬申の乱)。.

See full list on furutasigaku. しかし、古代日本史の多くの謎は、天武天皇につながるとしても過言ではないようです。 それは、天武天皇出自の謎から始まり、その激動の真っただ中の青年期の活動はおろか、存在さえも空白で、晩年の五十路に至り突如として歴史に姿を現しました。. ですが、全動画削除はまずいのでこの天武天皇の回と最終回だけは残しておくことにしました。 (動画紹介) 日本古代史最強の天皇・天武天皇. 天武天皇の謎に迫る その1 つもりが天智天皇の謎にも迫っていた | 新米西国札所先達のスピリチュアル巡礼記. 天智天皇の死の真相 大化改新の中心人物として、古代国家と天皇制の基礎を固めた天皇として、日本古代史に君臨する兄弟天皇、天智・天武。その功績に比例するように、2人の周囲には多くの謎が残されている。「天武天皇が兄だった?. 『m』 「天武天皇」はなぜ「壬申の乱」を起こしたのか、解説できる人は意外に少ないのではないでしょうか? 実は私も大学で日本史を勉強するまで、よく知りませんでした。 「天武天皇」は「白村江の戦い」で疲弊した倭国を立てなおすため、兄の子である「大友皇子」から天皇位を. 天武天皇は舒明天皇と皇極天皇の子として生まれ、同母兄に天智天皇がおり、持統天皇を妻としています。 生年月日は不詳とされ、死没年月日は686年10月1日とされています。.

私は、九州王朝の「天子・斉明」の弟で「大皇弟・真人」と称されていた「大海人皇子」が、「白村江の戦い」(六六二年)の敗戦で唐の進駐軍や復員兵でごったがえしていた九州王朝の首都・太宰府を脱出して、近畿に逃げ込んだと考えます。その際、近畿天皇家に対して九州王朝からの何らかの密命を帯びていたのかも知れません。 その当時の近畿では、「中大兄皇子」の「天皇家」が、大豪族であった蘇我本宗家を滅ぼし、「白村江の戦い」にも参戦しなかったため、実力を蓄え台頭してきて、近畿地方に覇権を確立していたようです。 そこへ、大海人皇子がやって来たのです。九州王朝は朝鮮半島での戦いに敗れ、亡国の瀬戸際に追い詰められていたとはいえ、皇子は“腐っても鯛”で、まだ格式だけはしっかりあり、往年の栄光を背後に決め込んでやって来たのです。その時、砂川氏が前掲書で言われるように、九州王朝の“七枝刀”などの宝物を持ち運んで来たことも考えられます。 それは、古田氏が述べておられる九州・久留米にあった九州王朝の宝庫「正倉院」の“御物”だったかも知れません。 そして、一方の天皇家の中大兄皇子は、“やっとこさ”即位して近畿天皇家の主・天智天皇となったのですが、侵入者で最大の政敵となった格上の大海人皇子に、脅威を感じて娘を二人も差し出し、歓待に務めたと思われます。 しかしながら、天智との蜜月は長くは続かなかったようです。その理由としては、天智は当初、後継者を大海人皇子としていたものの、そのうちに息子の大友皇子を当てたい、と考えたためではないかと思われます。 そのようなことから、大海人皇子は天智天皇を山科の木幡で暗殺したと考えます。『扶桑略記』にあるように「遺体」がなかったということと、「紀」に歴代天皇で陵墓が記されていないのは天智天皇ただ一人であるという事実が、それを雄弁に物語っていると思います。 その後、大海人皇子は九州の大豪族で嫁の父・胸形君(むなかたのきみ)徳善(とくぜん)と豊前の大豪族であった大分君((おおきだのきみ)恵尺(えさか)をバックにして、近畿の豪族達をも味方に付け(「近江遷都」反対の不満分子か)、筑紫や肥前から近畿を舞台に争乱を引き起こし、大友皇子を自殺に至らしめ、近畿天皇家を簒奪したのです。 ところで、「壬申の乱」は一つの見方として「易姓革命」だったのです(なお、これについては井沢氏や砂川氏も述べ. 天武 天皇 謎 テンムテンノウノヒミツトジトウテンノウノインボウ天武天皇の秘密と持統天皇の陰謀 謎の古代三河と大和 榊原康彦 サカキバラヤスヒコ 1942年豊橋市にて生れる。. しかし反面、天武天皇は謎が多い天皇としても知られています。 生まれた年が分からない天皇であり、昔から議論の対象になっています。 そんな有名な天皇でありながら謎の多い天武天皇を、里中満智子さんの漫画「天上の虹」を読んで飛鳥時代が大好き.

. 『日本書紀』(以下「紀」と言う。岩波文庫全五冊本から引用)全三十巻のうち二十八巻と二十九巻が天武天皇の事績、そして次の三十巻目は妻の持統天皇の事績です。「紀」の編纂は天武の生前に企画され、孫の元正天皇の養老四年(七二〇)、天武の息子・舎人親王(とねりしんのう)により完成をみました。 事績の記述においても、天武は「紀」全文中六八七行で第一位、第二位は欽明四四五行・第三位孝徳三七五行・第四位持統三三六行・雄略三一〇行・以下二〇〇行代が五人・一〇〇行代が十一人・あとは二桁・一桁代が二十人です(『天武天皇と九州王朝』砂川恵伸著、二〇〇六年、神泉社)。 これを見てお解りの通り、巻数・行数ともに天武は断トツで、「紀」は天武のために作られたことは事実です。勿論、この時代は“現代史”であるので天武に関する史料事実が多く、力が入るのは当然としても、私が見る限り「紀」はこの時代の勝者である天武を称揚し、かつ“政権簒奪”を正当化するために作られたのです。そのため、天武に都合の良いように“好き勝手”に編纂されたものと思われます。そして、後述しますが、「万世一系・近畿王朝一元史観」を創出するために、同王朝に先立つ九州王朝やその支配下の全国に数多あった諸国を“なかった”ことにして抹殺したのです。その結果、この時代が全く矛盾だらけの訳の解らないものになってしまったようです。 (なお、当小論で度々用いている“なかった”の語は、古田武彦氏の「九州王朝説をなかったことにしている」という近畿王朝一元史観学派に対する古田氏の基本的な揚言に従っています)。. 天智・天武天皇の謎 『日本書紀』の虚偽と真実 大和岩雄著 『日本書紀』は、天智天皇と天武天皇は父母を同じにする兄弟で、天智が天武の兄と書いている。. 動画を作る励みにもなりますので、チャンネル登録していただけると嬉しいです♪ これからも面白い動画を作っていきますので応援よろしくお. 謎が多い天武天皇の新説を紹介している本です。 歴史は勝者が作るものということで、大胆な推理をしています。 一般的な歴史認識と大きく離れていますが、こういった意見もあるのだなと歴史に興味がある方は読んでみてもいい一冊です。.

天武天皇の謎 天皇家 の 天武 天皇 謎 菩提寺 泉湧寺において、天智からすぐ 光仁 、 桓武 と続き、天武系 天皇 は除外されている。 つまり、天武から称徳までの8代7人の位牌がなく、皇室祭祀から除外されている。. みな様こんにちは、合田洋一です。今年も大勢の方にお集まり戴きまして誠にありがとうございます。私の講演も今回で六回目、六年が経ちました。これも偏にみな様の古代史への関心の強さの賜と、感謝申し上げます。 さて、本日の演題は『天武天皇の謎 -- 「万世一系」系図作成の真相』です。この時代は、「九州王朝の終末と新生日本国の成立」の過渡期にあって、わが国では未曾有の動乱期でした。 そのような中で、政権移譲に伴う九州王朝と新生・日本国の主となる近畿天皇家との関係、そこに主役として登場した天武天皇とは一体如何なる人物であったのか。出自や事績などは“謎”が多く、未だ確論に至っていないと考えられることが数多くあるように思います。 そうである所以は、当代史料が少ない上に “勝者の歴史書”で通説となっている『日本書紀』の記述が、この時代の解明に立ち塞がり、真実の歴史を覆い隠しているからだと思われます。 そこで私は、この時代の“闇”を少しでも切り開くことができればとの想いから、ここに表題の奥深いテーマに敢えて挑戦することにしました。 とは言え何分にも、推測の域を出ないことが多いことから、“小説の世界だ”、あるいは“文献史学ではない”とのお叱りを受けることを覚悟の上で、 “仮説論証”をしましたので、みな様のご批判を仰ぎたいと思います。 なお、本文中でカッコ内古田説としている古田武彦氏の出典については、誠に残念ながら、紙面の関係上省略させて戴きました。お詫び致します。 また、論述にあたり“用語”での混乱を避けるために、次のように表記しました。 一,「近畿天皇家」と「近畿王朝」という使い分けをしていますが、「王朝」は “宗主国の朝廷”を意味すると看做(みな)し、王朝交代の文武天皇の大宝元年(七〇一)を境として、前を「近畿天皇家」とし、後を「近畿王朝」としております。 一,「天皇」称号は、これも文武天皇の大宝元年に始まるとされています(古田説)。それ以前の近畿天皇家の称号は「大王」であり、また「天皇 謚号」も奈良時代以降ですが、当小論では便宜的に通例の —— 天皇としておきます。 天武 天皇 謎 一、八世紀成立の『古事記』『日本書紀』における系図作成の意図、及びそれに伴う歴史観の基本軸を、「万世一系・近畿王朝一元史観」としております(これについてはで詳述します)。 ところで、「天武天皇」の人物像の. とか ホーム ピグ アメブロ 芸能人ブログ 人気ブログ. 天武天皇の諱(いみな)は「天渟(あまのぬ)中原(なはら)瀛(おきの)真人(まひとの)天皇(すめらみこと)」であり、「八色姓やくさのかばね」の「真人」の称号を名乗っています(「紀」)。 「八色姓」とは「真人(まひと)・朝臣(あそみ・あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)・道師((みちのし)・臣(おみ)・連(むらじ)・稲置(いなぎ)」の八つの姓(かばね)をいい、天武天皇十三年(六八四)に制定したとされています(「紀」)。 しかしながら、この六八四年時の宗主国は、まだ九州王朝倭国なので、この記事は矛盾しております。しかも「八色姓」を制定した天武天皇自身が、臣下第一等の「真人」を自らの称号にするということは、全くおかしい話です。 従って、この「八色姓」は近畿天皇家の制定に係るものではなく九州王朝の制度であり、これは大海人皇子(天武)の九州居住時代の称号だったのです。. 天武 天皇 謎 天智天皇、天武天皇、聖武天皇、そして桓武天皇。 日本の歴史の古代に出てくる天皇という事で覚えている方も多いと思います。 ですが、この4人の天皇の違いについてご存知ですか? 今回は天智天皇、天武天皇、聖武天皇、桓武天皇の違. 實際上,天武天皇本身就是一個謎,主要是他即位之前的身份成謎。 歷代天皇中,他是唯一一個出生年月不明的天皇,不僅是出生年月,甚至連他的前半生都完全籠罩在謎團里。.

天武天皇などの天皇の歌だけではなく、貴族や庶民など様々な身分の人が詠んだ歌が4500首以上も掲載されています。 文学としても貴重な資料である万葉集ですが、当時の方言を知ることもできる言語学的にも貴重な資料です。. 天皇 1700年続く世界に類例をみない王家の謎。天皇とは、縄文時代から続く森羅万象に満ちるタマ(=カミ)につながる霊的リーダーであった。現代でも行われている天皇の即位の儀式、大嘗祭(だいじょうさい)では、新しい天皇は天皇霊(タマ)を受け継いでいるのだ。. 天武天皇(てんむてんのう)といえば、学校で名前は聞いたことがあるでしょう。 でも何をした人なのか良く分からないですよね。 孫の自害のウワサや、持統天皇との関係、また天武天皇(てんむてんのう)がそもそも正体がナゾだというウワサについ &he. 天皇家の菩提寺泉湧寺において、天智からすぐ光仁、桓武と続き、天武系天皇は除外されている。 つまり、天武から称徳までの8代7人の位牌がなく、皇室祭祀から除外されている。天武系天皇は先祖としての供養がされていないということだ。位牌は鎌倉時代に中国から伝来したので、後世に. そんな天武天皇の謎に迫りたいと思います。 通説での天武天皇. 天智天皇と天武天皇(大海人)が同父同母の兄弟であり、天智が兄で天武が弟であるということはほとんど周知の事実のように語られていますが、実態はどうであったのでしょうか? 以下に疑問点を挙げてみます。. 8564 天智の娘四人のうち大田皇女と盧鳥野讃良皇女は、天智の生前に娶り、大江皇女と新田部皇女は天智の没後に娶ったようです。 当時、叔父・姪の婚姻は問題ではありませんが、それにしても、「紀」において実の兄とされた天智天皇の娘四人も弟の妃にすることは、あまりにも異常です。裏を返せば、天武は天智の最大の政敵だったことになります。これは、天智と天武の兄弟説に大きな疑問を投げかける一つのポイントです。 そして、ここで注目すべきことは、胸形君徳善の. 通説では「大皇弟」とは天皇の弟のこととされています。しかしながら、「紀」で「大皇弟」と記されているのは天武だけです。初見は、天智天皇三年(六六三)の条、 「三年の春二月(きさらぎ)の己卯(つちのとう)の朔丁亥(つきたちひのとのゐのひ)に天皇(すめらみこと)、大皇弟(ひつぎのみこ)に命(みことのり)して、冠位(かうぶりくらゐ)の階名(しなな)を増し換(まか)ふること、及び氏上(このかみ)・民部(かきべ)・家部(やかべ)等(ら)の事を宣(のたま)ふ」 とあります。 ところで、「大」の付かない「皇弟」は、用明天皇二年四月の条に「皇弟皇子」・孝徳天皇の白雉四年の条に「皇弟等」・白雉五年の条に「皇弟」が出現しております。 これについて砂川恵伸氏は、「大皇弟」の意味として、概略次のように述べています(前掲書)。 「三国時代の呉の孫堅の呼称が『大皇』であり、倭国は『(呉の)太伯の子孫』とも自称していることから、北朝系の隋・唐に対抗して南方系支配者の呼称を採用した可能性はないとはいえない。大海人皇子は自分の身分を『大皇の弟』と呼称した」 と。しかしながら、果たして中国の故事にかこつけた単なる呼称だったのでしょうか。否、私の考えは次の通りです。 「大皇弟」の初見の、天智天皇三年条の時、天智はまだ天皇になっていない「中大兄皇子」の時代であり(「紀」によれば、天智の即位年は天智七年の正月)、そうなると天皇の弟すなわち「皇弟」を意味しません。それならばどのような意味があるのか。 ずばり申し上げると、「皇弟は天皇の弟」を意味し、「大皇弟とは天子(天皇より格上)の弟」を意味するのです。 因みに、『隋書ずいしょ』「イ妥国伝たいこくでん」に登場するイ妥(倭)国王 “阿毎(あま 天)多利思北孤たりしほこ”はその国書に、 「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無つつがなしや云云」 として、「天子」を名乗っていました。 つまり、大海人皇子は、当時日本列島の宗主国である「九州王朝の天子の弟」だったのです。 では、その時の天子は誰だったのかについては後述しますが、この「大皇弟」の論証が、拙論の最大のキーポイントとなりました。 また、次に述べる「真人」の称号からも、そして大海人皇子(天武)は九州王朝の姓である“天(あま 海士・海人に同じ)”を名乗っていることからも、また諱(いみな 死後に言う.

前エントリー「天皇の「生前退位」問題を考える -その真意は? ソースは? 黒幕は?-」で宮内庁の役人がメディアと国民に向かって公然と嘘を言っていることを書きました。 未だに宮内庁の山本信一郎次長が「天皇陛下が『生前退位』の意向を宮内庁関係者に伝えているという事実は一切ない. この天智天皇の系譜の謎を考えていきます。天智系天皇である桓武天皇は、天智天皇を大王家の系譜に入れる必要があったのです。 天武 天皇 謎 系譜変更のキーマンは天智天皇の娘であり、天武天皇の皇后であったとされる持統天皇です。. 「紀」は、天武天皇の父は第三十四代舒明天皇、母は第三十五代皇極天皇(重祚して第三十七代斉明天皇)であるとしています。果たして本当でしょうか。 今まで見てきた通り、天智と天武は兄弟ではなく、天武は「大皇弟」「真人」の称号から九州王朝の人となります。従って、通説の近畿天皇家の舒明・皇極(斉明)を父母とする系図は、全くの創作です。 更に言えば「宝皇女たからのひめみここと斉明さいみょう天皇は九州王朝の天子である」ということになると、なお一層系図の虚偽が明確となります。 また、推測の域を出ませんが、前回も述べました舒明天皇も“伊予滞在五ヶ月(「紀」)”の検証から、九州王朝の天子だったと考えられるのです。 古田氏はその著『壬申大乱』で、『万葉集』巻一に登場する“中皇命なかのすめらみこと”を、「七世紀中葉・以前の九州王朝の天子」としていることから、私は中皇命こそが舒明天皇ではないかと考えております。 ところで、天武が「大皇弟」であるならば、一体如何なる天子の弟だったのか、ということです。そして、父母は? 以下に、このことについて私の仮説を述べ、問題提起とさせて戴きます。 「紀」による通説ならば、斉明の崩御は六六一年なので、天武は天子・斉明の息子とされていても不思議はなかったのですが、白鳳年号(六六一~六八三年)が斉明の年号(古田説)だとすると問題が生じます。それは、「紀」では六七二年天武が近畿天皇家の天皇として飛鳥浄御原宮で即位、六八六年崩御とありますが、この間「白鳳年号の論証」により、九州王朝の天子・斉明が六八三年までは確実に生きているのです(その後も年号改元で生存の可能性あり)。そうなると、 “斉明・天武の親子説”は時系列的に無理です。 一方、「大皇弟の論証」から、天武は“天子の弟”でなければならないので、それでは天武は誰の弟なのか、ということになります。そこで、この時代の九州王朝の天子である人物として、次の三名を挙げることができます。 一人は“中皇命”です。古田氏によると「白村江の戦い」(六六二年)以前の天子であり、彼が拙論の舒明天皇だとしても「紀」では六四一年崩御とあるので、時代的には離れ過ぎており、弟とするのは無理と考えます。 二人目は、唐の捕虜となった“筑紫君・薩夜麻さちやま”です。薩夜麻は斉明の摂政(古田説)ということでもあり、斉明の後を継いだ. この古代最大の「内戦」を天武天皇を通して、見てみましょう。そこには事件の意外な「真実」が隠されていたのです。 まず、天智・弘文・天武三天皇の関係を一般の「皇室系図」で見てみましょう。 ┌(34)舒明天皇┬(38)天智天皇┬(41)持統女帝(天武帝皇后). 天智天皇崩御(六七一年十二月三日)後に起こったとされる「紀」による「壬申の乱」の顛末ついての概略は、次のようです。 戦争の開始宣言 —— 天武元年(六七二)六月二十二日「諸軍を差し発(おこ)して、急(すみやか)に不破道(ふはのみち)を塞(ふせ)け。朕(ちん)、今発路(いでた)たむ」 同月二十四日 —— 大海人皇子吉野出発、伊賀国から伊勢国に入る 戦争の終結 —— 同年七月二十三日 大友皇子自殺 戦争の期間 —— 三十一日 この「壬申の乱」については、古田武彦氏が『壬申大乱』(二〇〇一年・東洋書林、その後二〇一二年・ミネルヴァ書房より復刊)でその虚構を既に明らかにしております。それをかい摘んで述べますと、. 大和岩雄『古事記と天武天皇の謎』、臨川書院、1993年。(初版1979年) 小澤毅「藤原京の成立」、木下正史・佐藤信『飛鳥から藤原京へ』(古代の都1)、吉川弘文館、年。. 商品條碼:, ISBN:分類標籤:Subjects » Books » Reference » History » 本. 天武天皇は謎の人物である。 日本書紀30巻のうち、2巻を費やして華々しく天武の功績を讃えているにも関わらず、肝心のことが書かれていないのだ。 天武の生年である。 686年に崩御した記述はあるものの、生年が分からないので、当然没年齢も分かっていない。 後の時代に書かれた『一代.

其實在天武天皇之前,在日本以外的史料裡,也能找到倭國時代的大王曾向外國提到自己姓氏的記載。這個重要的線索來自於中國南北朝時代劉宋帝國的《宋書》。 標籤: 解開天皇祕密的70個問題, 天皇的歷史之謎, 胡煒權, 天皇, 姓氏, 日本. 天皇家の謎はさらに深まります。 というのも、天皇一族には実はすり替え説があり、これが真実だった場合、ほとんどの人間が天皇家の血筋ではないという謎です。 その謎とされるすり替え説があるのが「明治天皇」の頃とされています。. 「紀」の舒明天皇の条に 「二年の春正月の丁卯(ひのとう)の朔(ついたち)戊寅(つちのえとら)に、宝皇女(たからのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。后(きさき)、二(ふたり)の男(ひこみこ)・一(ひとり)の女(ひめみこ)を生(あ)れませり、一(はじめ)を葛城皇子(かつらぎのみこ)と曰(まう)す。近江(あうみの)大津宮(おおつのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり。二(つぎ)を間人皇女(はしひとのひめみこ)と曰(まう)す。三(つぎ)を大海皇子(おおしあまみこ)と曰(まう)す。浄御原宮(きよみはらのみやにして)御宇(あめのしたしらしめしし)天皇(すめらみこと)なり」 とありますが、ここには大海皇子(大海人皇子)後の天武天皇の生年月日が書かれておりません。「紀」のどこにも書かれていないのです。従って、崩御の年齢が不明であるため、兄とされる天智との年齢差もまた不明なのです。 ところが、鎌倉時代成立の『一代要記』や南北朝時代の『本朝皇胤紹運録』に、「天武の没年齢は六五才」とあって、『本朝皇胤紹運録』には「天武は推古三一年(六二三)誕生」とあります。 そのようなことから、大和岩雄(おおわいわお)氏は、「天武は天智より四才年上」であると論述しています(『天智・天武天皇の謎』一九九一年・六興出版。なお、これについては佐々克明氏の先行論文『天智・天武は兄弟だったか』がある)。また、井沢元彦氏も、「没年齢六十五歳(数え年)なら、天武は六二二年生まれということになる。しかし、その「兄」のはずの天智天皇は、六二六年生まれだ。すなわち、弟の天武の方が天智より四年早く生まれたことになってしまうのである(『逆説の日本史』2「古代怨霊編」一九九八年・小学館文庫)」 と述べております。私も、これに関しては後代史料に基づいているとしても諸兄の説に賛同します。 更に私なりに付け加えると、前述した天智の娘四人を天武の后に差し出しているのです(但し、天智の生前に二人、没後二人)。実の弟とされる者に政略の“具”として大切な娘を、です。不思議を通り越しているといっても過言ではありません。また、後述する「大皇弟」の検証及び前回も論述した天智・天武の母親であるとされた“斉明さいみょう天皇は近畿の天皇ではなく九州王朝の「天子」だった”(古田説)ことから、天武は天智の実弟ではなかっ. 漢風諡号の「天智」は、中国の暴虐な王として知られる殷の紂王の愛した天智玉から名付けられたとされます。そう天智こそ、百済からの渡来人を父に持つ王家簒奪の王なのでは・・・。天智と天武に関することで、誰もが不思議に感じるのは、中大兄皇子から大海人皇子へ、そう兄から弟へ4.

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